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11月分

このページは、天野画廊の画廊主・天野和夫の、きわめて個人的な出来事を綴ったものです。
画廊の仕事が、一見個人的であるにもかかわらず、社会的な機能を果たしているありさまを、
おわかりいただけるかと思います。
自他ともに、プライバシーには慎重に配慮いたしますが、うっかりと逸脱している場合は、すみ
やかにお叱りのお言葉をお願い申し上げます。                天野画廊 天野和夫

画廊主
   の
独り言
お叱りのお言葉,ご意見など
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10月30日からスタートするgallerism2006に、今年から新たに「企画運営サポーター」という名前
のボランティアグループが、展覧会のお手伝いをしてくれることになった。そのグループの会議
に顔を出して、展覧会の意味や概要、はたまた画廊とはどんな役割を持っているのかなど、雑
談ふうにしゃべってきた。昨年もボランティアグループの協力をいただいたが、主に受付などの
限られた仕事だった。今年は来場のお客様に話しかけたり、作品の簡単な説明をしたり、要は
もう一歩進めたコミュニケーションを担ってくれることになっている。ありがたい限りだが、そのた
めに、ある程度のマニュアルも作らねばならないし、いざというときには、画廊主や出品作家と
は違う独自の説明ももとめられる事が起こってくる。
このグループ、実は大阪現代美術センターが募集したボランティアの中から、gallerism2006の
ために特別に編成した7人のグループ。20代から50代までの男女で、職業もいろいろ。共通点は
美術が好きの1点。だが、画廊にはほとんど訪れた事のない人たち。果たしてどんな話をしたら
いいのやら、切り口がなかなか難しい。自らボランティアに応募するくらいだから、知識欲は旺盛。
そこで映画「モンパルナスの灯」の話や、画廊の壁はなぜ白いかなどの知的好奇心を満足させる
ような話ではじめるのだが、私自身話をしながら、この7人を「お客様」扱いしている自分に、ふと
疑問をもった。ボランティアスタッフって身内なのか、お客様なのか?

身内か?お客様か?

10月3日

9月分

国立国際美術館の「エセンシャル・ペインティング」という展覧会を見た。ミニマルアート以降、美術
界は大きな流れが途絶えて久しいが、この展覧会は、その後の欧米の最前線で活躍する13人の
画家を紹介している。私の仕事と直接結びつく展覧会だけに、勉強のつもりで見に行った。
ほとんどが40代・50代の画家で、私が名前すら知らない人ばかりだった。ただ一人、アレックス・
カッツだけは、アメリカで名の知れた画家で、作品もよく承知していた。だがこの作家は、1927年生
まれ。今回の出品作家の中では、最年長。ポップアートの流れを汲むこの作家の作品はわかりや
すい。ほとんどが具象作品なのに、彼以外の作品は解り辛かった。ぴんと来ないといったほうが適
切だろうか。それだけ私の意識のほうが、ずれてきているのだろう。これは困った。中には、日本の
アニメ、セーラームーンを画面に取り込んだ絵もあって、眉をしかめたくなる気持ちに襲われた。
一緒に訪れた韓国の知人も、同じ考えである事がわかって、ほっとしたが、よく考えてみると、それ
は世代が共通しているからで、結局は頭がかたくなったということにほかならない。

展覧会で思う

10月7日

この1週間に韓国の知人が3組も来た。欧米人は自分のスケジュールをしっかり組んで、興味の
ないところへは行かないし、さそわれてもはっきり断る事が多い。韓国人も日本人も、その点は
優柔不断で、人任せにする事が多い。その結果、あれこれ打ち合わせに手間取ることも多い。
いったん決めた予定もすぐ変わることもある。話をするときのお互いの距離も、欧米人に比べて
近いので、ずいぶんと疲れる。3組も来るのは、韓国では旧盆の休みがあるからで、その休みを
利用して、海外でリラックスする韓国人が急増しているという。だが本当にリラックスしているかと
いうと、ハードなスケジュールを組んで、はあはあ言いながらホテルに帰ってくることも多い。
この中の一組も、息抜きに日本に来たとはいうものの、暇なのが苦手らしくて、どこかいいところ
へ連れてゆけと、私に言う。急遽3日間のスケジュールを組んで、最終日は、朝6時にホテルを出
て関空から帰った。

リラックスしてる?

10月8日

昨日から、大津のギャラリー陶蔵で、脇山さとみと明在賢の陶芸二人展が始まった。私のプロ
デュースによるものだが、脇山さとみは、手びねりを得意として私の画廊で毎年個展をしている。
明在賢は、韓国の光州で蹴ロクロを使って、サバルと呼ばれるどんぶり茶碗のようなものを作る。
私を含めて、この3人は3年前に、韓国で行われた陶芸イベントで知り合った。
この展覧会の狙いは、手びねりと蹴ロクロの妙技を際立たせるところにあるが、とりわけ明さんの
作るサバルには、特別な趣がある。サバルは漢字では「沙鉢」と書く。大きさは、どんぶり鉢から
飯茶碗くらいまで、いろいろあるが、明さんの作るものはちょうど抹茶茶碗くらいのもの。古来韓国
では、多目的の雑器として生産・使用されてきた。この「沙鉢」、特に注釈がなければ、日本の抹茶
茶碗に酷似しているので、そのようなものとして片付けられる危惧があるが、実は韓国では、抹茶
をたてるのは稀で、茶道の主流は、緑茶だ。しかも、明さん自身、日本で陶芸を習得したのでもな
いし、日本の抹茶茶碗を真似たわけでもない。ただ、古来の「沙鉢」を、たんたんと作っているだけ
だ。
結局話は逆で、400年前に、この「沙鉢」を手にした日本人が、抹茶茶碗に転用したのが真相。蹴
ロクロで一気につくるその形は、力強く素朴な味わいがある。日本で、茶道と結びついた茶碗は、
どれも高価だが、雑器のまま生き延びた「沙鉢」は、より力強くて素朴で、かつ安価だ。考えさせ
られることが多い展覧会だ。

「沙鉢」と茶碗

10月11日

盆の墓参りは、とっくに済ましたが、ずっと気になることがある。私の通勤駅・京阪寝屋川市駅の
看板広告に、「祖先と向かい合う心を大切に」と言うキャッチフレーズがある。仏壇屋の広告だが、
「祖先」ではなくて「先祖」のまちがいでは、とずっと思っている。だって普通「先祖代々の墓」と書
くのが普通だからだ。「うちの祖先は、源平の合戦の、あの源氏なのです。」という表現は正しいが
その通りを墓に書いてお参りしている人は、まさかいないだろう。と思って、長らく紐解いていない
辞書をで確かめると、両方とも、「家系の初代の人」とか、「先代以前の死んだひと」と解説してい
て、さほど大差がない事がわかった。しかし常識的に、「祖先」は、「先祖」よりはるかに時間が逆
上るような気がする。だからこそ、「人類の祖先は、サルだった。」という昔のフレーズ(現在では
人類の祖先はサルから直接進化したのではなく、サルの祖先と共有している、と言われている。)
が説得力をもつ。これを「人類の先祖は・・・・」とは言わないだろう。
同じ漢字語圏の中国や韓国ではどうなのか、ちょっと気になる。

「祖先」と「先祖」

10月14日

村上隆が今年の夏に出版した本「芸術起業論」を読んだ。この類の本としては、かつて森村泰昌
が書いた「芸術家Mのできるまで(筑摩書房)」があるが、階段を駆け上がってゆくような迫力は共
通するものの、文体や論理の進め方には、驚くほどの違いがある。
「芸術起業論」は論文としては失格。はじめに結論ありきで、新興宗教の教則本、またはモーレツ
社員向けの営業マニュアルを思い起こさせる。もちろんベストセラーを狙った戦略上、こうなるのは
当然なのかもしれない。やたらに同じ文章が繰り返し出てくるが、それらは村上の言う「ブランディン
グ」(ブランドを創造し高めてゆくこと)を結論付けるための素材と言うよりは、暗示効果に近い。結
局は、はじめに結論ありきなのだから、この本ならボリュームを半分にしてもいいくらいだ。
内容の上では、画廊主としての私にとっては、参考になる事が多々ある。価値の創造という意味で
は、村上隆も私も、同じ側にいるからだ。いかにして付加価値をつけるかについてはまったく異論は
ない。むしろ思うがままにやってのけている彼を、私はうらやましく思う。
ただ気になるのは、最後のほうで、彼が育てている若いアーティストを、文中で「社員」と呼んでい
るのには、正直違和感をもった。社員が稼ぐ利潤は、最終的に会社に収斂されるのに対し、いくら
組織されているとはいえ、美術家が稼ぐ利潤は、最終的には美術家にフィードバックされなければ
ならない。
ともあれ、この本の最大の魅力は、論考の細部にいたるまで、「スーパーフラット」的な論法が貫か
れている。彼の絵と同じで、羅列的、教条的、視覚的な文章が、フラットに敷き詰められている。も
ちろん、はじめに結論ありき、で。

村上隆の「芸術起業論」

10月15日

いま全国の高校が履修単位不足の問題で揺れ動いている。受験に関係ないからといって、所定
の単位を履修せずに、卒業させているという。何をかいわんやの問題だが、一体いつからこのご
まかしが、半ば公認されてきたのかを私は知りたい。私の仕事に直接関係する美大・芸大に入学
する学生も、その例外ではなかったのだろうか?そういえば、数年前から、美大・芸大で学びなが
らも、4年間に一度も画廊に足を運ばない学生がどんどん増えている。彼らにとっては、美大・芸
大ですらも、就職のための単なる踏み台だと考えているのだろう。その考えが、高校時代に端を
発しているのなら、しかも学校までもがグルになってそれを奨励しているなら、日本はとんでもな
い方向に向かっているとしか言いようがない。言うまでもなく、今回の問題は、個々の高校の問題
ではなく、単位履修制度をコントロールする役所の問題だ。役人の責任を棚に上げて、教育現場
にだけ目を奪われないようにしたい。

高校の履修単位不足

10月30日

11月分
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