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このページは、天野画廊の画廊主・天野和夫の、きわめて個人的な出来事を綴ったものです。
画廊の仕事が、一見個人的であるにもかかわらず、社会的な機能を果たしているありさまを、
おわかりいただけるかと思います。
自他ともに、プライバシーには慎重に配慮いたしますが、うっかりと逸脱している場合は、すみ
やかにお叱りのお言葉をお願い申し上げます。                天野画廊 天野和夫

画廊主
   の
独り言
お叱りのお言葉,ご意見など
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はや12月がきた。そろそろ今年の締めくくりをと思って、思いをめぐらしていると、また
くだらない話題が飛び込んできた。かの有名な細木数子センセイが、テレビで卵の価格
が安いのは鶏舎を24時間電気をつけっぱなしにしたり薬漬けにしたりして、無理やり
生ませているからだと暴言を吐いた。影響を恐れた鶏卵業者がこれに抗議をしたとい
う。本当のところはわからないが、彼女の悪口にはいつも後味の悪さを感じる。聞くと
ころによると、彼女は、1983年に当時85歳ですでに痴呆の始まっていた有名な陽明
学者の安岡正篤氏に婚姻届に判を押させ10月に入籍。その2ヵ月後に安岡氏が死去
し、遺族と相当のトラブルがあったとか。細木は当時45歳だった。そのときすでに細木
の本はベストセラーになっていたというから、単なる財産目当ての婚姻ではなかったと
思うが、どこか後味が悪い。後味の悪さは、一種の予兆のようなものだ。だれか細木セ
ンセイの将来を占ってほしいものだ。おそれ多くて、誰も出来ないと思うが、やればそれ
こそ空前の視聴率を稼げると思う。
なんとなくこのセンセイのことを、前にも書いたような気がしたので、探してみたら、今年
1月1日に「おい、オッサン」といったことを書いていた。ああ嘆かわしい!

細木センセイの暴言

12月1日

広島在住の造形作家・瀬戸理恵子さんが来訪した。この欄で実名で紹介しても支障が
ないと判断して、思うままに書き留める。彼女は武蔵野美大を卒業後、1995年にペンシ
ルベニヤ大大学院へ進み、数年間をアメリカで過ごした。自由と民主主義のアメリカの
はずだったが、期待のほうが大きかったようで、失意を抱いて帰国し、5年前にふらりと
私の画廊のドアをたたいた。自分が日本人で、広島出身というアイデンティティーから
再度やり直す決意を聞いて、そのときに励ましの言葉を贈ったのが縁になった。
作品の素材は2つあった。身近にあるダンボールと、紅茶のティーバッグの袋。ハニカム
構造のダンボールを何百枚も重ね、切端の面から等身大の自分自身を作品は、迫力が
ある。実は意外と小さく見えるのだが、150センチに満たない小柄な体がそう思わせる以
外に、私たちの認識が、縦にあるものより横のものが小さく見えることに原因がありそう
だ。通夜の席で棺おけに収まった故人の遺体にお別れを告げるときに、意外と小さな人
だと感じた経験のある人は多いだろう。また、あらゆる動物は、横に長い敵には警戒をし
ないが、同じ長さでも縦に長い敵には警戒する。自己逃避をそのままに表現した作品だ
が、人間と自然の本性に支えられた作品は強い。
ティーバッグの作品は、毎日飲み続けたティーバッグの袋から茶葉を捨て、撚り巻いて
細い紐を作り、かぎ針で編んでゆく。ただの大風呂敷のようなものもあれば、人体の抜
け殻のようなオブジェもある。きわめて個人的な生活感覚と皮膚感覚から出発している
点が、共感を呼ぶ。現代美術の手法としては、共にアキュムレーション=accumulationの
一種と言えるが、解説は評論家に任せよう。
どんな賞でもいいから、まず勝ち取る事が、自分自身の励みになり、周りの見方も変わ
るから、というそのときのアドバイスが効いたのか、数年後の昨年になって、ジーンズファ
クトリー・コンテンポラリーアートアワードで、グランプリM賞を受賞した。
瀬戸さんが私の画廊を訪れたのは、継続的にコンタクトを続けるある美術館と、大阪の
画廊を見て回ったあとだ。徐々に成果に結びつつあると聞いて、とてもうれしい。これから
の活躍に大きな期待が持てそうだ。

造形作家・瀬戸理恵子さん

12月9日

中国・上海から思いがけない電話があった。電話の主は、A氏。17年前にシンガポールで
展覧会を企画したときのパートナーだ。中国語が堪能で、当時の中国進出企業の通訳の
仕事をしていた。17年前というのをはっきり憶えている理由は、それが昭和天皇の崩御の
年だったからだ。シンガポール滞在中に、天皇崩御のニュースを聞き、とても驚いた。現
地の新聞にも大きく報道されたのは言うまでもないが、私たちの展覧会が、「天皇の崩御
にもかかわらず挙行」という見出し付きで紹介されたのには、二度ビックリ。不謹慎という
ことらしい。
そのA氏は、当時京都に住んでいたが、30を過ぎてから中国人の妻をもらった。新婚気分
もつかの間で、料理・家事の不満をしきりに電話してきた。このたぐいの話は、両方から聞
かないとわからない事が多いので、ふんふんと聞き流していたが、すぐに東京に居を移し
子供が出来ると、酔って電話をしてくる回数もめっきり減った。下町の隅田川近くに住んで
いるといっていた。外国人が多くて、日本じゃないともいっていた。ぜひくるように何度も誘
われたが、よった勢いでまた嫁の悪口を聞かされるのがいやで、結局行く事はなかった。
それが、今度は上海からの電話だ。なんとスナックをはじめたと言う。夕方6時から開店し
ているからといって、電話番号を教えてくれた。声の調子がとてもはつらつとしていて、う
まく言っているようだった。たぶんもう50くらいになっているはずなので、そこそこ落ち着い
たのだろう。
この間中国も大きな変貌を遂げた。一度いってみようか。

上海からの突然の電話

12月10日

人の展覧会ばかりしていると、画廊主でありながら無性に自分の作品を作りたくなるとき
がある。私がかつて修行をした画廊は、作家と画廊主のけじめをきっちりつけるポリシー
を持っていたが、画廊主の美学としてはしごく当然だった。それから四半世紀が過ぎて、
その後の画廊主の中には、作家から転向した人や、二束のわらじをはいている人も見か
けるようになった。世の中がそれだけ流動的になっているのだろう。
私は高校時代からカメラいじりが好きで、そのおかげで案内状や展覧会の記録に残す写
真は自分で撮ってきた。最近はデジタルカメラが主流で、ほとんどパソコンで処理をして
整理するのがずいぶん楽になった。数年前から携帯電話にもカメラが着いて、最初はお
もちゃ程度の性能だったが、最近は記録にもつかえるまでに進歩した。
ある日、帰宅がてらに中之島公会堂の夜景を撮った。まともに映ったものもあったが、ひど
いシャッターぶれをおこしているのもあった。でもよく見るとそれは抽象画だった。思わぬ効
果に気をよくして、私は以来夜の光をとり続けている。
その昔、田中幸太郎さんと言う高名な写真家がいた。写実的な写真では河内風土記が有
名だが、もう一方で、花火をながし撮りする写真を発表し続けていた。生前に私の画廊でも
何度か展覧会をさせていただいた。
私が携帯のカメラで撮った写真は、なんとその田中幸太郎さんの写真にそっくりだった。
田中さんは6x7のブロニー判で撮影した。被写体はいつも花火で、光る瞬間にカメラを動
かしながら取り込んで、必要なら巻き戻して多重露光を繰り返して作品を作った。撮影時
には、体をゆすりながらシャッターを押すので、周りの人々はその姿を不思議そうに見て
いたという。田中さんが自分の撮る写真に自信を持ったのは、吉原治良にほめてもらった
のがきったけだったといっていた。フイルムに描くアクションペインティング、それが吉原さ
んからいただいた言葉だった。
前置きが長くなったが、私が携帯のカメラで撮影するのは、とても簡単だからと言う事につ
きる。小型軽量、取り直し自由、コストがかからないなどフイルムカメラとは大きな違いがあ
る。現像を待たなくても即見れるのも魅力だ。
まだまだはじめたばかりだが、夜の街で手を振るように携帯を振りながら撮影している人を
見かけたら、それは私です。作品の一部を26日の参鶏湯パーティーの時に披露しようと思
っている。

携帯カメラで奮闘中

12月15日

友人から台湾旅行のお土産に、森永ミルクキャラメルをもらっ
た。日本のものにそっくりのデザインで、さすがに南国らしく黒
糖のバージョンだ。実はかなり前に、私自身韓国でお土産用に
韓国製の森永ミルクキャラメルを買って帰ってきた事がある。こ
ちらはまったく同じデザインで、色も同じ。違うのは全部ハング
ル文字で書いてあったこと。今もあるかなと思って今年6月にソ
ウルの駄菓子屋で探してみたが見つからなかった。消えてし
まったのには両国の親日度の差が反映しているような気がし
た。この手のもので戦前から残っているものに、仁丹と正露丸
がある。どちらもキーボードでそのまま入力して変換すると一
発で変換される。それほど普及した名称なのだ。だが、正露丸
は、もともとは「征露丸」だったという。これを携行してロシアを
征服すると言う意味だ。時代が変わって、漢字表記が改められ
たが、発音は同じ。日本の海外侵略のシンボルみたいな商品
だと思うと、複雑な気持ちになる。

森永キャラメルに思う

12月17日

右:中国製 左:日本製

上:日本製 下:中国製

クリスマスに向けて大阪市役所のイルミネーションに人出が一段と増えてきた。中央公
会堂もライトアップしていて、向かいのバラ園も今特別な照明がされている。市役所とは
対岸にあって、寒さに震えながら橋を渡って鑑賞することになる。と思いきや、このごろ
川面でちょっとしたイベントがある。サンタさんだ。サンタクロースは、トナカイに引かれた
そりに乗っているのが定番だが、さすが水の都・大阪、サンタさんはボートに乗ってやって
くる。誰のプロデュースによるものはわからないが、気の利く演出と思う。たまたま出くわし
て、携帯電話のカメラで撮った。ボートには3人のサンタが赤い服を着て乗っていた。橋か
ら手を振ると、愛想よく両手を振ってくれた。

船上のサンタクロース

12月20日

サンタクロースの船

市役所前のイルミネーション

中央公会堂

右の拡大写真

2006年1月分