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10月分
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11月分

このページは、天野画廊の画廊主・天野和夫の、きわめて個人的な出来事を綴ったものです。
画廊の仕事が、一見個人的であるにもかかわらず、社会的な機能を果たしているありさまを、
おわかりいただけるかと思います。
自他ともに、プライバシーには慎重に配慮いたしますが、うっかりと逸脱している場合は、すみ
やかにお叱りのお言葉をお願い申し上げます。                天野画廊 天野和夫

画廊主
   の
独り言
お叱りのお言葉,ご意見など
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2006年9月

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今月はじめから、あのライブドアの元社長・ほりえもんの公判が始まっている。現代の錬金術師
が裁かれるわけだが、粉飾決算にダミーの投資会社経由の資金洗浄を組み合わせれば巨額の
金がころがりこむ図式は、マルチ商法にどこか似ている。儲かるのはトップだけで、だまされた
出資者だけが貧乏くじを引く。経済の実態からかけはなれたマネーゲームは、いつか破綻する。
マルチ商法と違うのは、一見資本市場の普通の取引を装っている点だ。
それにしても、いまだに六本木ヒルズに住む事が出来る被告人って、どうもわからない。

ほりえもんの裁判はじまる

9月4日

8月分

行き慣れた韓国だが、訪れたのははじめての土地だった。場所はソウル郊外の竜仁市(ヨンイン
と発音する)。ソウルからバスで1時間ほど、もう少し先にはやきものの里で有名な利川(イチョン)
がある。
郊外の町らしく、雑然とした小ぶりの市街地を取り囲むように大きなアパート群が林立する。その
中間あたりに、2年前に忽然と広大な新市庁舎が出来た。ソウルでも目を引くくらいの現代的なビ
ルで、さすがに批判を恐れたのか、ここは「ヨンイン分化福祉タウン」と名づけられ、役所の機能
以外に
文化芸術院という展示場が併設されている。ここで今回「第1回ヨンイン国際アートエキ
スポ」というイベントが開かれた。天野画廊から4名の作家が招待された。

主催者は、地元の韓国美術協会キョンギ道支部と竜仁市。芸術家集団と行政が、地方文化のレ
ベルアップで手を組んだ。会期中100名に達する出品作家の中の、約30名の外国作家(日本・中
国・ベトナム・フィリピン・タイ)は会期中のホテルや食事はフリー、渡航費の一部も支給される歓待
ぶり。宿泊地は会場から車で30分の山中にあるリゾートホテル。韓国でも有名なヤンジ・パイン・リ
ゾートというスキー場のあるところ。
いたれりつくせりというのは、地方都市が国際的イベントを行うときの半ば「常識」なのはわかるが、
肝心の運営組織が弱体でハプニング続きなのも、半ば「常識」。整然とブースに区切られた真新
しい会場に、初日以外に人影はまばら。地元の美術協会と行政当局の面子だけが先行した感じが
否めない。しかも膨大な予算を使って出来たこの構造物の主は、昨年の市長選で失脚したという。
地方のよくある話とはいえ、第2回目の展覧会がかなり危ういことだけは確かだ。

ヨンイン国際アートエキスポ

9月24日

今年の光州ビエンナーレを見た。2時間しかなかったので、メインホールだけを回った。やたらに
ビデオ作品が多くて、見るのにとても疲れた。長い作品もあれば、短いのもあるが、せいぜい1、
2分見るのが精一杯。消化不良のまま次の作品に移ることになる。この展覧会はいつの間に「
ビデオ・ビエンナーレ」になったのかと思う。
今年の展覧会のタイトルは「熱風変奏曲」、アジア精神のルーツ探しにつけられたタイトルで、
当初からアジアにスポットを当てたこのビエンナーレの精神を受け継いでいる。
主催者によれば、展示はさらに、神話と幻想、自然と身体、精神の痕跡、現在における過去という
4つのセクションに分かれる。だが、この教科書的なコンセプトが有効であるかどうかは、疑わし
い。70年代のはじめ(だったと思う)にオノ・ヨーコとジョン・レノンが作った「ハエ」というフィルムを
DVDに移し変えたものが上映されていたが、全裸で横たわる女性の体の上を這いまわるハエを
大きくクローズアップしてカメラが追いかけるだけの単純なものだが、視覚と触覚が絡み合うこの
作品が果たしてアジアの文脈に添うものだろうか。日本からは、おなじみの千住博、内藤礼、柳
みわらが出品していたが、彼らの作品のどこにアジアを感じるのか、疑問がのこる。
このビエンナーレが、韓国の現代史上の汚点とされる光州事件の本拠地であるのが、最も反映
された展示が、最終の第5ギャラリーの南米セクションだった。入り口にははっきりと「アメリカ帝
国主義」と言うことばが明示されていた。南米でアメリカ資本主義が引き起こす摩擦が、南米の
立場から語られていた。だが展示がいかにも断片的で、見る者を十分に説得するには遠いもの
を感じた。
ビデオは見るものを時間的に拘束する。絵画や彫刻に比べ、自由度に欠ける。この問題が何と
か克服できるようにはならないのだろうか。

光州ビエンナーレを見た

9月26日

10月分
11月分
12月分