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2005年10月



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お叱りのお言葉,ご意見など
画廊主
   の
独り言

このページは、天野画廊の画廊主・天野和夫の、きわめて個人的な出来事を綴ったものです。
画廊の仕事が、一見個人的であるにもかかわらず、社会的な機能を果たしているありさまを、
おわかりいただけるかと思います。
自他ともに、プライバシーには慎重に配慮いたしますが、うっかりと逸脱している場合は、すみ
やかにお叱りのお言葉をお願い申し上げます。                天野画廊 天野和夫

11月分
12月分
2月分
9月分

展覧会の作品についてしゃべるときに、たとえ話をよく使う。今開催中の個展の作品は、水平線や
地平線を描いたように見えるが、かなり抽象的に昇華された画面になっている。絵の具ののりがか
なり厚く、マチエールにこだわっている様子がよくわかる。それでいて画面が重い感じがしないの
は、油彩画の正攻法に徹しているからだろう。作者・石川裕敏さんの一徹な正確がよく出ていて、
そういう意味では、この絵は「直球」だ。だが「直球」ばかり投げると、すぐに読まれて、ヒットを打
たれてしまう。「変化球」も必要なのだ。初日に訪れた一人の愛好家が、帰り間際に、「直球」もい
いけど、「変化球」もほしいよな、と言ったが、たしかに愛好家からの正論ではある。
だがこの問題、意外と根は深い。「変化球」に頼ると、「直球」がおろそかになる。描き手としては、
それを恐れるあまり、つい禁欲的になる。だが愛好家は、楽しませてくれる「変化球」に期待する。
間に立つ私のような画廊主は、どちらの言い分もわかるだけに、つらい立場だ。
基本的には直球と変化球は矛盾するものではないが、どちらも巧みに操れるのは、名ピッチャー
に限られる。資質や能力の点で、なかなかうまく行かないのが普通だ。それを可能な限り両立させ
るのは、描き手の努力なのだが、周りのサポートや助言の役割も大きい。
近年逆に、「変化球」に没頭する描き手も現れた。一度新しい変化球をあみ出すと、次々に新しい
変化球を求めてはまってゆく。村上隆がこのタイプだが、流行を自ら創り、先取りするうちはいい
が、常に全力疾走しないと、流行に追い越され、流行に見捨てられる時がやってくる。

「直球」と「変化球」

10月4日

今から20年も前のこと。定年退職をした父が母と一緒に、京都・太秦の東映映画村に行った。父
は時代劇が大好きで、テレビの「素浪人月影兵庫」と「水戸黄門」は毎週欠かさず見ていた。その
舞台裏がどんなものか興味があったのだろう。日帰りで楽しめる手軽さもあって、朝早くからいそ
いそと出かけていった。夕方帰宅した父は、至極満足げだったが、水戸黄門は代役で、立ち回り
も撮影とは関係のないショーとして組まれたものだったと言って、不満ももらしていた。父は何か
につけて、手放しで喜べる性格ではなくて、必ずひとつや二つは「いちゃもん」(不服を言うこと)を
つける人間だった。私にもそんなところがあるのは、父の血を受け継いでいるからだろう。それは
ともかく、まあ記念にとばかりに撮った写真を見せてくれた。着流しを着てかつらをかぶったショー
の主役の両側に父と母が納まっていた。「まだ新進の名もない役者やねんけど、一応ショーの主
役やで」と笑いながら私に言った。その写真は我が家のアルバムに貼られたが、残念ながら阪神
大震災で失われた。母は震災の前年に亡くなり、父も震災の2年後に他界した。
写真に写っていた「ショーの主役」は、今キラキラの衣装を着てサンバを踊っている。そう、「暴れ
ん坊将軍」の松平健だ。父が生きていたら、自慢の種が一つふえていただろうに。「こいつはいつ
か絶対に大物になると思ってた。」

松健サンバを見ると思い
出す

10月9日

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